INTERVIEW

“オニール八菜のあのバレエを観て幸せになったよ”
-20年後も、そう言われるダンサーでありたい-

『パリ・オペラ座バレエ団で踊ること』ー幼い頃から抱いていた夢に、まっすぐ立ち向かい、一歩ずつ、着実なステップを昇ってきた。正団員になったのは3年前。短い時間に、カドリーユからコリフェ、スジェを経て15年11月にはバレエ団の頂点“エトワール”に次ぐプルミエール・ダンスーズに昇格し、16年5月には、“バレエ界のアカデミー賞”と称されるブノワ賞を受賞。バレエに捧げてきた21年の軌跡をたどりながら、その素顔に迫る。

日本人の母と、ニュージーランド人の父を持つ彼女が、東京・世田谷の岸辺バレエ・スタジオでバレエを習い始めたのは3歳の時。バレエ好きだった母の勧めで、「お友だちと一緒に楽しく踊っているー当初はそんな感じでしたね。映像でオペラ座の舞台を観たり、パリ・オペラ座バレエ学校の公演を観たりするうちに、“私にとってのバレエ=パリ・オペラ座バレエ団”ということになっていて、5、6歳の頃には、ここに行きたい!と思うようになっていました」

8歳の時、家族と共に父の故郷であるニュージーランドに移住し、15歳で豪州メルボルンのオーストラリア・バレエ・スクールに単身留学する。「はじめの頃はホームシックが続きました。一番つらかったのは、最初の年の一学期が終わって、ニュージーランドに帰って休暇を過ごしたあと、またメルボルンに戻る時でした。帰りたくない。家族と離れるのが悲しい。そんな気持ちでいっぱいでしたが、この時が最初で最後でしたね」

4年間の在学中、ローザンヌ国際バレエ・コンクールで優勝、ユース・アメリカ・グランプリで金メダル受賞するなど、頭角を現していったが、7年生(最終学年)の時、ひとつの壁にぶち当たる。

「仲良しのお友だちもできて、毎日楽しく過ごせていましたし、それまではバレエに関しても、苦もなくこなしてこれたのですが、他の生徒に比べて私の体は細めで、付けるべき筋肉が、付くべき部位になかなか付かなくて。それでけっこう苦労しましたね。振り返れば、“どうしてそんなことで落ち込んでたの?”って思うこともあるけれど、コンプレックスを持たないバレリーナはいないと思うんですね。体型的なこと以外にも細かく言うと色んなことがありますが、コンプレックスのことばかり考えていても仕方がないので、それをポジティブに捉えていくというか…バレエは、メンタルを強く保ち、集中するべきことに集中していかないと、大変すぎます」。最終学年の年は、バレエと並行して心理学の授業も受けていたという。

同校を首席で卒業したのち、時を待たずして大きな転機がやって来た。パリ・オペラ座バレエ団のシーズン契約獲得だ。「入団試験では、順位リストが発表されます。私は4位でした。当時はシステムが良く分かっていなかったこともあって、1位以外はダメだと思っていたので、電話がかかってきた時は本当にびっくりしました。しかも、パリからオーストラリアに帰る飛行機のトランジットで、シンガポールに着いた瞬間でしたから。もう信じられないほど、嬉しかったです。迷うことなく、即答しました」

シーズン契約は、「ダンサーによってさまざまで、2ヶ月の人もいれば、半年、1年の人もいます。最初の年、私はシーズンの始まる9月から翌4月までの契約でしたが、結局1年延びて、そのあとの1年と合わせると、計2年間、契約ダンサーとしてお世話になりました」

「夢にまで見たオペラ座、周りには憧れのダンサーたちの姿。なんて素晴らしい環境に今、私はいるんだろうーそう思いながらも、やっぱりホームシックにはなりました。フランスとオーストラリアとでは、ニュージーランドとの距離が全然違いますし、フランス語も全然話せなかったし、とりわけ親しいお友だちがいるわけでもなかったので、最初の頃は、たいへんなこともありました」

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